ラジェンドラ・ビクラム・シャハ
ラジェンドラ・ビクラム・シャハ Rajendra Bikram Shah | |
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ネパール国王 | |
ラジェンドラ・ビクラム・シャハ | |
在位 | 1816年 - 1847年 |
戴冠式 | 1816年11月20日 |
出生 | 1813年12月3日 カトマンズ、ハヌマン・ドーカ宮殿 |
死去 | 1881年7月10日 バクタプル |
配偶者 | サムラージャ・ラクシュミー・デビー |
ラージャ・ラクシュミー・デビー | |
子女 | スレンドラ・ビクラム・シャハ ウペンドラ・ビクラム・シャハ ラネンドラ・ビクラム・シャハ ビレンドラ・ビクラム・シャハ デベンドラ・ビクラム・シャハ |
王朝 | ゴルカ朝 |
父親 | ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ |
母親 | ゴーラクシャ・ラージャ・ラクシュミー・デビー |
宗教 | ヒンドゥー教 |
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ラジェンドラ・ビクラム・シャハ(Rajendra Bikram Shah、1813年12月3日 - 1881年7月10日)は、ネパール王国の第5代君主(在位:1816年 - 1847年)。
生涯
1813年12月3日 、ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハの息子として生まれた[1]。
1816年、父王のギルバン・ユッダの死去により、3歳で即位する[1]。
1842年、皇太子スレンドラの素行不良を理由にカトマンズで人々が決起し、その統治権停止を要求し、困惑したラジェンドラは第二正妃ラージャ・ラクシュミー・デビーに全権を委任した[2]。ここから実に数年にわたる権力闘争が始まったが、王はその間無力な存在であった。
1846年9月、王宮大虐殺事件が発生し、首相ファッテ・ジャンガ・シャハ以下多数の重臣が殺害され、ジャンガ・バハドゥル・クンワルが首相となった。
同年10月、バンダールカール事件の発生後、第二正妃とともにインドに亡命を余儀なくされる[3]。クンワルは姓をラナと変え、その子孫は代々宰相としてネパールを支配し、ゴルカ朝は1951年までの104年間に渡り実権を失う(ラナ家の支配)[4]。
1847年、ジャンガ・バハドゥル打倒の兵をあげたが、その軍勢は打ち破られ、ラジェンドラは逮捕された。その後、彼はバクタプルに投獄され、生涯をそこで過ごした。一時はカトマンズのハヌマン・ドーカ宮殿にもうつされた[5]。
1881年7月10日、ラジェンドラはバクタプルで死亡した[1]。
脚注
参考文献
- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。
関連項目
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ゴルカ国王 | ドラヴィヤ・シャハ1559-1570 / プールナ・シャハ1570-1605 / チャトラ・シャハ1605-1609 / ラーム・シャハ1609-1633 / ダンバル・シャハ1633-1645 / クリシュナ・シャハ1645-1661 / ルドラ・シャハ1661-1673 / プリトビパティ・シャハ1673-1716 / ナラ・ブーパール・シャハ1716-1743 / プリトビ・ナラヤン・シャハ1743-1768 |
ネパール国王 | プリトビ・ナラヤン・シャハ1768-1775 / プラタープ・シンハ・シャハ1775-1777 / ラナ・バハドゥル・シャハ1777-1799 / ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ1799-1816 / ラジェンドラ・ビクラム・シャハ1816-1847 / スレンドラ・ビクラム・シャハ1847-1881 / プリトビ・ビール・ビクラム・シャハ1881-1911 / トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ1911-1950 / ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ1950-1951 / トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ1951-1955 / マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ1955-1972 / ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ1972-2001 / ディペンドラ・ビール・ビクラム・シャハ2001 / ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ2001-2008 |
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