1744年5月19日の海戦
1744年5月19日の海戦 | |
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ノーサンバランドの拿捕、アンブロワーズ・ルイ・ガルネレー(英語版)作、1837年。 | |
戦争:オーストリア継承戦争 | |
年月日:1744年5月19日(グレゴリオ暦)/5月8日(ユリウス暦) | |
場所:ポルトガル王国、ベルレンガ島沖[1] | |
結果:フランスの勝利[2] | |
交戦勢力 | |
グレートブリテン王国 | フランス王国 |
指導者・指揮官 | |
トマス・ワトソン(Thomas Watson) † | コンフラン伯爵(英語版) エティエンヌ・ド・ペリエ(英語版) |
戦力 | |
戦列艦1隻 | 戦列艦2隻 6等艦1隻 |
損害 | |
戦列艦1隻拿捕 | 僅少 |
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1744年5月19日の海戦(フランス語: Combat du 19 mai 1744、グレゴリオ暦)、または1744年5月8日の海戦(英語: Action of 8 May 1744、ユリウス暦)はオーストリア継承戦争中に行われた小規模な海戦。フランスの60門艦コンタン(フランス語版)と64門艦マルス(Mars)が4時間にわたる激戦ののちイギリスの戦列艦ノーサンバランド(英語版)を拿捕した[1]。ノーサンバランドの艦長トマス・ワトソンとその副官が戦死した[2]。
戦闘
1744年5月19日、サー・チャールズ・ハーディ(英語版)の小艦隊はベルレンガ島沖を巡航中に北方へ向かう船を発見、ハーディはノーサンバランドに追撃を命じた[3]。敵船はフランスの戦列艦であると判明、しかも60門艦1隻とフリゲート1隻と同伴していた[4]。
ノーサンバランドの艦長トマス・ワトソンはフランス艦隊の規模をハーディに知らせずに全速で前進、やがてイギリス艦隊から見えない位置まで進んだ[4]。フランス艦隊の船はそれぞれから離れており[3]、17時にはノーサンバランドが最後尾のマルスに追いついた。マルスがノーサンバランドに発砲すると、ノーサンバランドも反撃して激しい砲撃の応酬となった。ワトソン艦長は勇猛に戦い、マルスとの戦闘を続く代わりにコンタンにも接近しようとし、マルスから離れながらコンタンを追う戦闘となった[4]。
コンタンがノーサンバランドに接近すると、戦闘は更に激しくなり、ノーサンバランドは数時間戦い続けたが航行不能に陥り、ワトソンも致命傷を負ったため、後に軍法会議にかけられることとなる代理の艦長は降伏した[3][4]。
脚注
- ^ a b Dupont/Taillemite, p. 79.
- ^ a b Troude, p. 299.
- ^ a b c Allen, p. 143.
- ^ a b c d Guérin, p. 258.
参考文献
- Maurice Dupont, Étienne Taillemite. Les guerres navales françaises: du Moyen Age à la guerre du Golfe.(フランス語)
- Léon Guérin. Histoire maritime de France:contenant l'histoire des provinces et villes maritimes, des combats de mer depuis la fondation de Marseille, 600 ans avant J.-C., de la flibuste, des navigations, voyages autour du monde, naufrages, célèbres, découvertes, colonisations, de la marine en général, avant, pendant et depuis le règne de Louis XIV jusqu'à l'année 1850, Vol. IV.(フランス語)
- O. Troude. Batailles navales de la France, Vol. I.(フランス語)
- Joseph Allen. (1872) Battles of the British Navy: from A.D. 1000 to 1840. Bell & Daldy Publishing. ASIN B00087UD9S.(英語)