鳥羽城
この項目では、志摩国の城について説明しています。越前国の魚住氏の城については「鳥羽城 (越前国)」をご覧ください。 |
鳥羽城 (三重県) | |
---|---|
鳥羽城 | |
別名 | 鳥羽の浮城、錦城、二色城 |
城郭構造 | 平山城・海城 |
天守構造 | 3重(1633年築) |
築城主 | 九鬼嘉隆 |
築城年 | 文禄3年(1594年) |
主な改修者 | 内藤忠重 |
主な城主 | 九鬼氏、内藤氏、土井氏、稲垣氏など |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 石垣 |
指定文化財 | 県指定史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度28分50.977秒 東経136度50分40.379秒 / 北緯34.48082694度 東経136.84454972度 / 34.48082694; 136.84454972座標: 北緯34度28分50.977秒 東経136度50分40.379秒 / 北緯34.48082694度 東経136.84454972度 / 34.48082694; 136.84454972 |
地図 | 鳥羽城 |
テンプレートを表示 |
鳥羽城(とばじょう)は、志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市鳥羽三丁目)にあった日本の城。鳥羽藩の藩庁が置かれた。水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城、また、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城、錦城とも呼ばれる。
歴史
鳥羽城があった樋の山(志摩国答志郡鳥羽)の鳥羽湾に突出した部分には中世、橘氏の居館があった。文禄3年(1594年)当時、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆がその跡地に築城した。九鬼家3代、内藤家3代、天領、土井家1代、大給(松平)家1代、板倉家1代、戸田(松平)1代と目まぐるしく城主が代わり、享保10年(1725年)以降に稲垣家8代で漸く定着した。安政元年(1854年)に地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま、明治4年(1871年)に度会県が置県され同年に払い下げられ破却された。
現在
現在の鳥羽水族館の裏手にある低い丘が鳥羽城跡である。本丸跡は鳥羽市立鳥羽小学校[1]の運動場となっていた。山麓北側の武家屋敷跡には市役所・城山公園・旧鳥羽幼稚園[2]などが造られ、遺構は本丸と旧家老屋敷の石垣が残っている。昭和40年(1965年)12月には、三重県史跡に指定されている[3]。『極秘諸国城図』のうち鳥羽城の絵図が平成30年に発見確認され、令和元年に公表された[4]。
天守の存在
長らく鳥羽小学校の敷地となっていた本丸跡は2009年(平成21年)に同校が校舎の老朽化を理由に移転した事を契機に、翌年の2010年(平成22年)に天守台や本丸御殿の遺構確認を主たる理由とした発掘調査を実施した。その際に天守曲輪に関連するとみられる雨落ち溝などの遺構を確認できたものの天守台と推定される場所は削平が著しく石垣の痕跡は確認できなかった[5]。しかし平成25年(2013年)に鳥羽市立図書館で、天守の具体的な寸法が書かれた古文書が保管されていることが分かった。その古文書によると、天守の一重目と二重目は正面5間と奥行6間、三重目が3間半と3間1尺の広さを有し、四方には3尺の走りが取り付けられていた他、天守台には納戸が設けられていたという[6]。
ギャラリー
- 天守台石垣
- 本丸・天守跡
- 鳥羽城石碑
脚注
関連項目
- 九鬼水軍
- 海城 (城郭)
外部リンク
- 『鳥羽城之絵図』 - 三重県 生活部文化振興室 県史編さんグループ
- 県史跡 鳥羽城跡(とばじょうあと) - 鳥羽市公式サイト
- 鳥羽城跡と城山公園 - 伊勢志摩きらり千選(財団法人伊勢志摩国立公園協会)
- 表示
- 編集