阿野季綱
凡例 阿野季綱 | |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 文明3年(1471年) |
死没 | 永正8年9月16日(1511年10月7日) |
官位 | 従三位 |
主君 | 後柏原天皇 |
氏族 | 阿野家 |
父母 | 父:阿野公熙、母:勧修寺経成の娘 |
子 | 養子:季時 |
テンプレートを表示 |
阿野 季綱(あの すえつな)は、戦国時代の公卿。官位は従三位。
生涯
父・公熈は応仁の乱の際に葉室光忠(室は公熈の従姉妹)とともに足利義視を支持し、母もかつて義視の寵愛を受けていたとされる事から、義視の子である足利義材が将軍になるとその信任を受けた。明応の政変の際にも義材に近侍していたが、京都に脱出している。
その後、明応7年(1498年)になって突然京都を脱出して越中国に亡命中の足利義材に合流し、東坊城和長に義材の改名の相談を持ち掛けるなど、京都の朝廷や公家との連絡係を務めている。
永正5年(1508年)に足利義稙(義材を改名)が京都に戻って将軍に復帰すると、その推挙によって同年7月16日に参議兼左近衛中将に任ぜられ、位階も従四位上に進められた。復帰後の季綱は義稙の為に朝廷や公家達との交渉を行ったほか、細川高国や大内義興に義稙の意向を伝えるなど、将軍側近の地位を得るに至った。
永正6年(1509年)に正四位下、永正8年(1511年)に従三位に叙せられるが、同年に41歳で急死した。
系譜
- 父:阿野公熙
- 母:勧修寺経成の娘
- 妻:無
- 養子:阿野季時(実父は万里小路賢房[1])
脚注
[脚注の使い方]