藤原朝俊
凡例 藤原朝俊 | |
---|---|
時代 | 鎌倉時代前期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 承久3年6月14日(1221年7月5日) |
官位 | 常陸介、右衛門佐 |
主君 | 後鳥羽上皇→順徳天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原朝経または藤原朝定 母:藤原親信の娘 |
テンプレートを表示 |
藤原 朝俊(ふじわら の ともとし)は、鎌倉時代初期の貴族・武将。藤原北家勧修寺流、侍従・藤原朝経の子[1]。官位は常陸介・右衛門佐。
経歴
後鳥羽上皇、順徳天皇の近臣として仕える。承応2年(1208年)に鳩を取るために朱雀門に昇り、その火が延焼して門が炎上した記事が『明月記』に見えるが、その際「ただ弓馬相撲をもって芸となす。殊に近臣なり」と紹介されており、武芸の才をもって重用されていたことがうかがわれる。
承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇の討幕計画に参加。 高倉範茂らと共に宇治方面の防衛に当たるが、宇治川の戦いにおいて鎌倉幕府軍と衝突。八田知尚や佐々木高重ら諸将と共に奮戦するが、乱戦の中で三浦義村の郎党・小河経村によって討ち取られた。『六代勝事記』においてはその果敢な戦いぶりを賞賛されている。
脚注
- ^ またはその兄・朝定の子とも。