聚楽廻
聚楽廻 じゅらくまわり | |
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京都市の広域地名(公称町名の冠称) | |
北緯35度1分4秒 東経135度44分30秒 / 北緯35.01778度 東経135.74167度 / 35.01778; 135.74167座標: 北緯35度1分4秒 東経135度44分30秒 / 北緯35.01778度 東経135.74167度 / 35.01778; 135.74167 | |
都道府県 | 京都府 |
市町村 | 京都市 |
行政区 | 中京区 |
郵便番号 | 〒604-8401, 02, 03, 04, 11[1] |
市外局番 | 075 |
学区(元学区) | 朱雀第二学区・朱雀第六学区それぞれの一部 |
隣接地域 | 上京区(仁和学区・出水学区)、中京区西ノ京地域 |
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聚楽廻(じゅらくまわり)は、京都市中京区の地名。 近世から近代にかけての村名・大字名として用いられ、 現在では、公称町名に「聚楽廻」を冠する地域を指す。
概要
豊臣秀吉が造営した聚楽第旧地の南西部、二条城の西側にあたる。 集落が形成されたのは、江戸時代中期以降である。上京に飛地の洛外町続町を有した。 明治22年(1889年)に朱雀野村の大字となり、大正7年(1918年)に京都市下京区(当時)に編入された。 現在は、京都市中京区北西部に位置し、聚楽廻を冠する5つの町で構成され、京都市内の地域自治の単位である元学区(学区)[注釈 1]では、朱雀第二学区と朱雀第六学区にまたがって位置する。
歴史
平安時代から安土桃山時代
この地域は、南の一部分を除き平安京では大内裏(平安宮)に含まれ、大極殿を含む朝堂院の西半分と、その西側に豊楽院、また造酒司および典薬寮の一部が位置した[2][3]。 大内裏は、幾度の火災の被害を受け、そのたびに再建されたが、豊楽院は康平6年(1063年)[4]、朝堂院は平安時代末期の安元3年(1177年)の安元の大火により焼失して以降は再建されず、承久元年(1219年)に内裏を含めた大内裏が焼失。その再建途上の安貞元年(1227年)の火災以降再建されず放棄され[5]、その後大内裏は内野(うちの)と呼ばれる荒地となった[4]。 この内野の地の北東部に、豊臣秀吉が聚楽第を建造したが、文禄4年(1595年)破却した[6]。なお、現在の聚楽廻の地域は、聚楽第の範囲から南西に外れている。
江戸時代から京都市編入
現在の地域名である聚楽廻(聚楽廻り)の名称は、近世から村名として用いられた。 江戸時代初期には、南東側で接していた三条台村(二条御城廻)と共に、町に住む農民の出作地であり[7]、集落が形成されたのは中期以降であるとされ、以降も農民の居住地や農地は市街にも散在していた[2]。また、二条城周辺には幕府関係の施設が立地したが、聚楽廻においても、京都所司代の与力・同心屋敷が千本通西、太子道(旧二条通)北(現在の聚楽廻東町、西町、中町付近)に置かれていた[8]。
現在上京区にある三助町・鳳瑞町・利生町は、同村の飛地で町場化した洛外町続町であり[8]、明治元年(1868年)7月に上京に編入され、明治2年(1869年)の第二次町組改正で上京第8・9番組(のちの仁和学区)に編入されている[9]。 また、同村の南東側に位置した三条台村(二条御城廻)は、明治8年に西ノ京村に編入されている[10][注釈 2]。
明治9年(1876年)に郡区境界改正が行われ、市街に散在していた地域を市中に編入、また市街から編入した地域もでき、改めて聚楽廻と名称が定まった[2]。
明治22年(1889年)に、西ノ京村、壬生村と合併し、朱雀野村の大字となった[11]。
京都市編入以降
大正7年(1918年)に、朱雀野村が西院村の一部と共に京都市下京区(当時)に編入され、編入された区域は下京第34学区となり、大字聚楽廻は同学区内で聚楽廻を冠する5つの町となった[12]。 下京第34学区は、昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され[13]、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、朱雀学区となり、中京区に属した。
朱雀学区には、昭和12年(1937年)までに朱雀第一から第八までの8つの小学校が置かれ、昭和16年(1941年)の国民学校令により、国民学校の通学区域を単位として設置された町内会連合会[14]がもとになって、戦後朱雀第一から第八までの元学区となった。(中京区役所関連の資料では、この昭和16年に朱雀学区が8つに分かれたとしている[注釈 3]。) 公称町名に聚楽廻を冠する地域は、元学区では朱雀第二学区と朱雀第六学区にまたがって位置する[15]。
地理
現在、聚楽廻地域(公称町名に「聚楽廻」を冠する地域)は、京都市中京区の北西部に位置し、範囲は、北は出水通下る、南は押小路通上る、東はおおむね千本通、西は下ノ森通である。千本通と丸太町通が交通の主要軸となっており、かつては市電が敷設されていた。
聚楽廻地域の北側は上京区、南側は中京区西ノ京地域(公称町名に「西ノ京」を冠する地域)に接している。地域自治の区分である元学区(学区)では、聚楽廻松下町、聚楽廻中町、聚楽廻東町と、聚楽廻西町の一部(JR山陰本線以北)が朱雀第二学区であり、聚楽廻南町と、聚楽廻西町の一部(JR山陰本線以南)が朱雀第六学区に位置する[16]。いずれの元学区(学区)でも聚楽廻を冠する町は、その一部となっており、学区内の小学校は聚楽廻地域の外に位置する。
聚楽廻地域の町名
- 聚楽廻東町(-ひがしまち[注釈 4])
- 聚楽廻中町(-なかまち)
- 京都市編入前は字「豊楽中町」[17]。聚楽廻東町の西に位置する。江戸時代には京都所司代与力・同心屋敷が立地した。町の南端を旧二条通、北に丸太町通が通る。町内に日本聖公会京都聖三一教会が位置する。現在は朱雀第二学区にあたる。ただし、JR山陰本線の南側の通学区域は朱雀第六小学校となる。平安京の朝堂院と豊楽院敷地にあたる。(郵便番号〒604-8403)
- 聚楽廻西町(-にしまち)
- 京都市編入前は字「豊楽西町」・「小栗」・「草川」・「伏田」[17]。聚楽廻中町の西に位置する。現在はJR山陰本線の北側が朱雀第二学区、南側が朱雀第六学区である。江戸時代には京都所司代与力・同心屋敷が立地した。平安京豊楽院にあたり、丸太町通一筋南の通りの南側に平安京豊楽殿跡が位置する。(郵便番号〒604-8402)
- 聚楽廻松下町(-まつしたちょう)
- 京都市編入前は字「松ノ下」[17]。聚楽廻西町の西、丸太町通りの南北に位置する。東端が七本松通、西端が下ノ森通に限られる。現在は朱雀第二学区にあたる。平安京の造酒司が位置し、京都市中央図書館・京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)ではその跡地であることを示している。町の南部は平安京の典薬寮の一部にあたる。(郵便番号〒604-8401)
- 聚楽廻南町(-みなみまち)
- 京都市編入前は、字「朱雀」・「車坂」[17]。現在は朱雀第六学区にあたる。北端に旧二条通が通る。山陰本線がカーブしながら町域を横切り、その西側には二条自動車教習所が位置する。平安京では朝堂院と豊楽院敷地にあたる。(郵便番号〒604-8411)
近世の聚楽廻の洛外町続き町
以下の3町は、近世に上京の町場に形成され、葛野郡聚楽廻(聚楽村)に属した洛外町続町に由来するため、ここで説明する。
- 利生町(りせいちょう) 下長者町通六軒町西入
- 近世では下長者町通の北側を「自生町」あるいは「利生町」、南を新長者町と言っており、明治2年に合併。第二次町組改正により、上京第9番組に編成され、現在は、仁和学区に位置する。平安京大内裏の大歌所にあたる[18][19] 。
その他
聚楽廻南町から千本通の東向いに位置する上京区の聚楽町(じゅらくちょう)は、近世は京都所司代の御鉄砲方・御米蔵手代などの役宅と町家が入り組んだ市街の西限であり、幕末前の絵図・地誌等には町名が見えず、『京都坊目誌』では明治3年に民有地となり、明治8年に同町名になったとあるが、明治2年の上京第14番組のなかに同町名の記録がある[22]。上京第14番組に属し、現在は出水学区に位置する。 町の南には、出世稲荷神社があったが、2012年移転。京都市営バスなどの停留所名も「出世稲荷前」から、「千本旧二条」に変更された。
また、元学区の聚楽学区は、聚楽第の東側に位置しており、聚楽廻地域とは離れて位置する。
小・中学校の通学区域
市立小・中学校に通う場合の通学区域は以下のとおり[23]。
町名 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
聚楽廻松下町 聚楽廻東町 聚楽廻西町(JR以北) 聚楽廻中町(JR以北) | 京都市立朱雀第二小学校 | 京都市立西ノ京中学校 |
聚楽廻南町 聚楽廻西町(JR以南) 聚楽廻中町(JR以南) | 京都市立朱雀第六小学校 |
交通
地域内には、京都市三大事業によって、千本通が拡築され、明治45年(1912年)から京都市電千本線が運転されていたが、昭和47年(1972年)1月に廃止された。 千本通以西の丸太町通については、市区改正設計路線として拡築され、昭和3年(1928年)6月から西ノ京円町(後に電停名を円町と改称)・千本丸太町間で市電丸太町線が運転され、昭和51年(1976年)3月に廃止された。
鉄道
路線バス
道路
- 東西の通り
- 南北の通り
主な施設
- 京都市中央図書館・京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)
名所・旧跡等
脚注
注釈
- ^ 京都市では単に「学区」といった場合、地域自治の単位である「元学区」のことを指す。その区域は小学校の通学区域とは必ずしも一致しない。
- ^ 『京都市の地名』 (1979), pp. 821–822, 「二条御城廻」では、明治7年(1874年)の編入とする。
- ^ 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年、5頁。https://www.city.kyoto.lg.jp/digitalbook/page/0000000960.html。2024年3月2日閲覧。 、京都市中京区役所:素晴らしきわがまちなど。
- ^ 読みがなについては、京都市通学区町名一覧(中京区)、『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982)を参考にした。
出典
- ^ “郵便番号簿PDF(2023年度版)”. p. 218. 2024年3月16日閲覧。
- ^ a b c 『京都市の地名』 (1979), p. 821, 「聚楽村」.
- ^ “平安京オーバーレイマップ”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ a b 『京都市の地名』 (1979), p. 35.
- ^ 『京都市の地名』 (1979), p. 37.
- ^ 『京都市の地名』 (1979), p. 646.
- ^ a b 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』 (1985), p. 478-479, 「聚楽廻り・二条城廻り・三条台村」
- ^ a b 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), pp. 766–767, 「聚楽」.
- ^ 『京都市の地名』 (1979), p. 677, 「聚楽村」.
- ^ 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), pp. 1111–1112, 「二条御城廻」.
- ^ 『京都府府令達要約 明治22年 第10編上巻』京都府内務部、1889年、27頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/788412。 (明治22年2月23日京都府府令第26号「府下各郡町村ノ内合併分割名稱制定所属變更ノ件」)
- ^ 『京都市 地名・町名の沿革』 (1994), pp. 47, 48(大正7年2月22日京都府告示第89号)
- ^ 『京都市 地名・町名の沿革』 (1994), pp. 50, 51(昭和4年3月29日京都府告示第80号)
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 1 (政治・行政編)』京都府、1971年、248頁。doi:10.11501/9537070。https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9537070/1/135。
- ^ “令和2(2020)年 国勢調査地図”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “京都市地域統計要覧ウェブサービス”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), p. 769.
- ^ a b c 『京都市の地名』 (1979), p. 677.
- ^ 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), p. 1485, 「利生町」.
- ^ 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), p. 1275, 「鳳瑞町」.
- ^ 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), p. 679, 「三助町」.
- ^ 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻 (1982), pp. 768–769, 「聚楽町」.
- ^ “京都市通学区町名一覧(中京区)”. 2024年3月16日閲覧。
参考文献
- 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』平凡社、1985年。doi:10.11501/9575674。ISBN 9784582477092。
- 林屋辰三郎、村井康彦、森谷尅久 編『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系27〉、1979年。ISBN 4-582-49027-1。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府』 上巻、角川書店、1982年。ISBN 4-040-01261-5。
- 京都市 編『京都市 地名・町名の沿革』1994年。
- 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年。https://www.city.kyoto.lg.jp/digitalbook/page/0000000960.html。2024年3月2日閲覧。
- 京都市学区調査会 編『京都市学区大観』1937年。doi:10.11501/1440637。https://dl.ndl.go.jp/pid/1440637。