織田信重
この項目では、織田信包の子について記述しています。その他の同名の人物については「織田信重 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
「織田信成 (大名)」とは別人です。 |
凡例 織田信重 | |
---|---|
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:三十郎 |
戒名 | 渓林院殿融雪魯白大居士 |
官位 | 従五位下・民部大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
藩 | 伊勢林藩主 |
氏族 | 織田氏(信重流) |
父母 | 父:織田信包、母:不詳 |
兄弟 | 信重、寿圭、信則、信当、姫路殿、松平忠明正室、木下利房正室 |
妻 | 津川義近の娘 |
子 | 直政、津田長相、竹中重房室、土御門泰重室など4男2女 |
テンプレートを表示 |
織田 信重(おだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。伊勢国林藩初代藩主。官位は従五位下・民部大輔。信包系織田家支流初代。
生涯
伯父・織田信長の死後、父・信包と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正15年(1587年)の九州平定に従軍し、また文禄3年(1594年)の伏見城築城にも加わっている。同年9月に父が改易されると、伊勢林1万石を与えられたという。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に所領を安堵された。ところが慶長19年(1614年)の父・信包の死去に伴って、弟・信則が遺領を相続したことに不満を抱いて、大坂の陣後に江戸幕府に対して異議を申し立てた。慶長20年(1615年)閏6月23日、調査の結果、幕府は信則の相続を遺言によるものとの判断を信重に伝え、同年閏6月29日、幕府は信重の異議申し立てを「僻事」(『寛政重修諸家譜』)として所領を没収した。
系譜
子女は4男2女。
舅の津川家との関係は深く、長男・左大夫直政の子の慈澤蔵主は津川義近、近利親子の位牌がある妙心寺大嶺院住持であり、三男・次郎左衛門長相は、津川家同様に肥後熊本藩主家細川氏に召し出されて、その子孫も代々同家に仕えた。
娘は陰陽師・安倍晴明の子孫である土御門泰重の妻となっており、土御門神道を提唱する土御門泰福の母となる(諸説あり)。
信重流織田家初代当主(1594年 - 1615年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
織田氏 (平姓) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾張国守護代家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊勢守家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大和守家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
因幡守家 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤左衛門家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弾正忠家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弾正忠家の分家・支流 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信長流 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信勝流 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信包流 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信治流 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長益流 |
|
織田氏林藩藩主 (1594年 - 1615年) | |
---|---|
|