津軽海伝藏
津軽海 伝藏(つがるうみ でんぞう、1928年5月13日 - 2013年7月14日)は、青森県南津軽郡(現黒石市)出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は宇野 傳三(うの でんぞう)。身長167cm、体重79kg。得意手は、左四つ、寄り。最高位は西十両16枚目(1957年1月場所)。得意技は左四つ、寄り。引退後は若者頭・津軽海として長く後進の指導に当たった。
来歴
第二次世界大戦中は満蒙開拓青少年義勇軍に加入し、中国大陸に渡っていた。終戦と共に、中国から引き揚げて郷里の青森に戻った。予てから相撲好きであったため、角界入りを決意し、知人から春日野部屋を紹介され入門。1948年5月場所で初土俵を踏んだ。小兵のため時間は掛かったが、粘り強く食い下がる相撲で着実に番付を上げていった。1957年1月場所に十両昇進。技巧派力士の代表格として期待されたが、腕の怪我の影響もあり十両では勝ち越すことは出来ず、十両在位は2場所に終わった。同年9月場所に西幕下9枚目で2勝6敗と負け越したのを最後に現役を引退し、若者頭に就任した。若者頭就任後は、幕下以下の力士を徹底的に鍛え上げ、横綱・栃ノ海など数多くの関取を見出し、1993年5月場所の定年退職までの長きに渡り後進の指導にあった。
退職後は千葉県千葉市に居住。大病を患い、車いす生活が続いていたが、孫に相撲を指導するなど、相撲に対する熱意は変わらなかった[1]。晩年の津軽海と堀切洸助(後の幕内、阿炎)の家族は親しかったようであり、ある大会で津軽海が車椅子で応援に来たところ、当時小学生であった堀切が率先して津軽海の世話を手伝った[2]。
孫も2012年に角界入りし、玉ノ井部屋に入門。祖父と同じ「津軽海」の四股名を名乗っている。
2013年7月14日、多臓器不全のため千葉県内の病院で死去した[3]。85歳だった。
戦績
- 通算成績:156勝157敗32休 勝率.498
- 十両成績:9勝21敗 勝率.300
- 現役在位:34場所
- 十両在位:2場所
場所別成績
春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1948年 (昭和23年) | x | x | (前相撲) | 東序ノ口8枚目 休場 0–0–6 | ||
1949年 (昭和24年) | 東序ノ口10枚目 休場 0–0–12 | x | 東序ノ口5枚目 休場 0–0–14 | 新序 4–0 | ||
1950年 (昭和25年) | 西序二段11枚目 5–10 | x | 東序二段16枚目 10–5 | 東三段目33枚目 9–6 | ||
1951年 (昭和26年) | 東三段目22枚目 8–7 | x | 東三段目12枚目 6–9 | 西三段目17枚目 7–8 | ||
1952年 (昭和27年) | 西三段目17枚目 7–1 | x | 西幕下32枚目 6–9 | 西幕下35枚目 7–8 | ||
1953年 (昭和28年) | 東幕下35枚目 8–7 | 東幕下29枚目 3–5 | 西幕下32枚目 6–2 | 東幕下18枚目 3–5 | ||
1954年 (昭和29年) | 西幕下22枚目 4–4 | 東幕下20枚目 3–5 | 東幕下24枚目 3–5 | 東幕下30枚目 4–4 | ||
1955年 (昭和30年) | 東幕下29枚目 3–5 | 東幕下36枚目 5–3 | 西幕下26枚目 5–3 | 西幕下17枚目 5–3 | ||
1956年 (昭和31年) | 西幕下10枚目 3–5 | 東幕下14枚目 5–3 | 東幕下10枚目 7–1 | 東幕下2枚目 6–2 | ||
1957年 (昭和32年) | 西十両16枚目 6–9 | 東十両19枚目 3–12 | 西幕下3枚目 3–5 | 西幕下9枚目 引退 2–6–0 | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 宇野 傳三(うの でんぞう)1948年5月場所 - 1950年1月場所
- 津軽海 伝藏(つがるうみ でんぞう)1950年5月場所 - 1957年1月場所
- 津軽海 伝三(つがるうみ でんぞう)1957年5月場所 - 1957年9月場所
参考文献
- 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
関連項目
出典
外部リンク
- 津軽海 伝藏 - 相撲レファレンス