永キ

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愛新覚羅 永璂
続柄 乾隆帝第十二皇子

出生 乾隆17年4月25日(1752年6月7日)
清の旗 大清国北京紫禁城
死去 乾隆41年1月28日(1776年3月17日)
清の旗 大清国北京紫禁城
父親 乾隆帝
母親 継皇后那拉氏
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愛新覚羅 永璂(あいしんかくら えいき、乾隆17年4月25日(1752年6月7日) - 乾隆41年1月28日(1776年3月17日))は、乾隆帝の第十二皇子。

母は継皇后那拉氏。同母弟は永璟。異母弟は嘉慶帝

生涯

乾隆17年(1752年) 継皇后那拉氏を生母に産まれる。

乾隆30年(1765年) 乾隆帝の江南巡幸の際、生母の継皇后那拉氏が帝の怒りを買って直接北京に送り返され、廃后の詔書こそ下されなかったが、事実上皇后位を廃された。

乾隆31年(1766年) 継皇后那拉氏が死去した。乾隆35年(1770年) 博爾濟吉特(ボルギジト)氏と成婚する。

乾隆36年(1771年) 「御製満蒙文鑑」の編纂を命じられる。

乾隆40年(1775年) 「御製満蒙文鑑」の総綱が完成し、乾隆帝からある程度の評価を受ける。

乾隆41年(1776年) 23歳で逝去。子がなかったため、異母兄永瑆の第四子綿偲が養子となって家を嗣いだ。

嘉慶4年(1799年) 異母弟の嘉慶帝より多羅貝勒に追封された。

参考文献

脚注