桃井義助
凡例 桃井義助 | |
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 承久3年6月12日(1221年7月3日) |
別名 | 足利義助、通称:足利次郎 |
官位 | 左兵衛尉、兵部少輔 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 桃井氏 |
父母 | 父:足利義兼 |
兄弟 | 畠山義純、義助、義氏、藤原親兼室、 野田朝氏室、園田成実室 |
子 | 義胤 |
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桃井 義助(もものい よしすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。通称を足利次郎といい、足利義助とも表記する。官位は左兵衛尉、兵部少輔。桃井氏の祖。
略歴
父同様に鎌倉幕府に仕える。承久3年(1221年)に勃発した承久の乱において幕府方の将として出陣し、宇治川における幕府軍と朝廷軍の会戦の際、6月12日に戦死を遂げた[1]。または6月15日とも伝わる[2]。
上野国群馬郡桃井郷(群馬県榛東村大字山子田字御堀)に桃井城を築き、桃井を名乗ったとされる。義助の死後、その遺児である義胤は正式に桃井郷の地頭となり、桃井を苗字とした。子孫は桃井氏として存続し、足利一門の一家として室町幕府の草創に参加した。
系譜
脚注
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