乾元大宝

本来の表記は「乹元大寳」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
乾元大宝(東京国立博物館所蔵)

乾元大宝乹元大寳、けんげんたいほう)は、958年(天徳2年)3月から、日本で鋳造、発行された銭貨(『日本紀略』)[1][2]皇朝十二銭の最後に発行された貨種である。

始鋳と流通

独立行政法人造幣局の資料によると、乾元大宝の始鋳年は天徳2年(958年)、材質は、量目2.44g、直径19.5mm、銅分51.25%である[3]。ただ、皇朝十二銭のうち平安遷都後の9貨種は質の低下により文字が不鮮明になるなど安定していない[4]

『日本紀略』によると乾元大宝は村上天皇の時代の天徳2年(958年)3月25日に発行された[4]

銭文は参議の大江惟時が上申し、阿保懐之の書が採用された[4]。銭文について、本来であれば当時の代表的な能書家であった木工頭小野道風が書くべき所、既に65歳となっていた道風は眼病(老人性白内障とされる)が進行して細字を書くことができなかった。さらに、道風に次ぐ能書であった大内記・紀文正も触穢と称して拒絶したため、やむなく図書允・阿保懐之が書くことになった[5]

小型で鉛が75%、あるいはそれ以上を占めるものもあるなど品位は非常に低く[6][7]、また製作も悪く銭文の文字が読めないものも少なくなく、流通範囲も狭かったらしい。だが、当時の平安貴族には貨幣流通不振の理由が分からず、『日本紀略』によれば天徳2年4月8日には伊勢神宮以下11社に新造の乾元大宝を奉納して流通を祈願している[8]

963年応和3年)に、朝廷発行の最後の貨幣として鋳造を終了した。[要出典]

日本では11世紀の初めには銭貨の流通が途絶え、約150年間にわたり金属貨幣の空白期となり、や布(麻布)、が貨幣として機能した[9]。その後、12世紀半ばには中国から入ってきた渡来銭の時代に移った[9]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 「改銭貨文延喜通寳、為乾元大寳」『日本紀略』天徳2年3月25日條
  2. ^ 武藤和夫『日本貨幣法制史』三重大学法制史学会、2-3頁。https://kuwana-library.jp/kcl_digital_pdf/241.pdf 
  3. ^ “造幣博物館のご案内”. 独立行政法人造幣局. p. 30. 2024年9月3日閲覧。
  4. ^ a b c “和同開珎発行1300年 貨幣誕生―和同開珎の時代とくらし―”. 日本銀行金融研究所貨幣博物館. p. 15. 2024年9月3日閲覧。
  5. ^ 『日本紀略』天徳2年4月7日条
  6. ^ 甲賀宜政 『古銭分析表 考古学雑誌』第9巻第7号、1919年
  7. ^ 齋藤努・高橋照彦・西川裕一 『金融研究 古代銭貨に関する理化学的研究 「皇朝十二銭」の鉛同位体比分析および金属組成分析』 日本銀行金融研究所、2002年
  8. ^ 榎村寛之 「平安時代中期の京内銭貨幣流通についての一考察」栄原永遠男・編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年
  9. ^ a b “和同開珎発行1300年 貨幣誕生―和同開珎の時代とくらし―”. 日本銀行金融研究所貨幣博物館. p. 16. 2024年9月3日閲覧。