ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ
ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ Michał Korybut Wiśniowiecki | |
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ポーランド国王 リトアニア大公 | |
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在位 | 1669年6月19日 - 1673年11月10日 |
戴冠式 | 1669年9月29日 |
別号 | リトアニア大公 |
出生 | 1640年7月31日 ヴィシニョヴィエツ、ポーランド(現ウクライナ領) |
死去 | (1673-11-10) 1673年11月10日(33歳没) リヴォフ、ポーランド(現ウクライナ領) |
埋葬 | 1676年1月31日 ヴァヴェル大聖堂、クラクフ |
配偶者 | エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ |
家名 | ヴィシニョヴィエツキ家 |
父親 | イェレミ・ヴィシニョヴィエツキ |
母親 | グリゼルダ・コンスタンツィア・ザモイスカ |
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ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ(Michał Korybut Wiśniowiecki, 1640年7月31日 - 1673年11月10日)は、ヴィシニョヴィエツキ家出身のポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1669年 - 1673年)。
退位したヤン2世の後を受けて国王に選出されたが、何ら業績を挙げられず、交戦国との弱腰外交に徹した。逆に前国王ヤン2世に軍司令官に任命されたヤン・ソビエスキがポーランド内戦(大洪水時代)後のオスマン帝国との戦争で功績を挙げたため、ミハウは国内からの貴族層の支持を失う。在位わずか4年で没し、ヤン・ソビエスキが新国王に選出された。
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