パウリ行列(パウリぎょうれつ、英: Pauli matrices)、パウリのスピン行列(パウリのスピンぎょうれつ、英: Pauli spin matrices)とは、下に挙げる3つの複素2次正方行列の組のことである[1][2]。σ(シグマ)で表記されることが多い。量子力学のスピン角運動量や、部分偏極状態の記述方法に関連が深い。1927年に物理学者ヴォルフガング・パウリによって、スピン角運動量の記述のために導入された[3]。
添字は数学では 1, 2, 3 が、物理学では x, y, z が使われる。座標系によっては添字と3つの行列の対応が違ったり、あるいは符号が違ったり、さらには一見全く違って見えることもあるが、本質的な性質は変わらない。
上記3つに単位行列 I を加えた4つの行列をパウリ行列と呼ぶこともある。
基本的な性質
パウリ行列は次の性質を満たす[1][2]。
エルミート性・ユニタリ性
パウリ行列は
を満たすエルミート行列であり、
を満たすユニタリ行列でもある。
パウリ行列の積
パウリ行列の自乗は単位行列に等しい。
また相異なるパウリ行列同士の積は次の関係を満たす。
すなわち i, j, k = 1, 2, 3 について
が成り立つ。ここでクロネッカーのデルタ δij とエディントンのイプシロン εijk を用いれば、これらをまとめて
と書くことができる。
交換関係・反交換関係
パウリ行列の交換関係と反交換関係は一般的に
となる。
交換関係 | 反交換関係 |
| |
固有値・固有ベクトル
それぞれのパウリ行列は、固有値 +1 と −1 を持つ。それぞれの規格化された固有ベクトルは、
である。
トレース・行列式
パウリ行列 σk (k = 1, 2, 3) のトレース (Tr) は 0 となり、行列式 (det) は −1 となる。
2次単位行列 σ0 = I を含めた場合、
である。
単位行列を含めたパウリ行列 σμ (μ = 0, 1, 2, 3) について、
が成り立つ。よって、複素2次正方行列空間 Mat(2,C) において、単位行列を含めたパウリ行列はヒルベルト=シュミット内積(英語版) ⟨A, B⟩ = Tr(A†B) について、直交する。
複素行列の展開
複素2次正方行列空間 Mat(2,C) において、単位行列を含むパウリ行列は直交基底をなす[4]。よって、任意の複素2次行列 A は単位行列を含むパウリ行列 σμ (μ = 0, 1, 2, 3) の線形結合として、次の形で書ける。
ここで複素係数 sμ は
で与えられる。
また、任意の2次エルミート行列 A は単位行列を含むパウリ行列の線形結合で書いたとき、係数 sμ は実数になる。
部分偏極状態を表現するコヒーレンス行列はエルミート行列であるが、これをパウリ行列で展開した係数を要素とするベクトル(実ベクトル)はストークスベクトル(英語版)と呼ばれる。ストークスベクトルは、ある種の射影空間であるポアンカレ球の座標系を作る。
指数関数
パウリ行列の性質
から、その行列指数関数はオイラーの公式の類似である関係式
を満たす[5]。 さらに実ベクトル a→ = (a1, a2, a3) ∈ R3 とパウリ行列の組 σ→ = (σ1, σ2, σ3) に対し、
が成り立つ[2]。ただし、n→ は
で与えられる単位ベクトルである。
a→ が実ベクトルの場合、exp(i a→⋅σ→) は2次特殊ユニタリ群 SU(2) の元となる。これはパウリ行列に虚数単位を乗じた iσk (k = 1, 2, 3) が SU(2) に対応するリー代数 𝔰𝔲(2) の基底であることによる。
SU(2)の生成子
パウリ行列は、行列式を 1 とする 2次ユニタリ行列がなす2次特殊ユニタリ群 SU(2) に対応するリー代数 𝔰𝔲(2) の生成子である[1][5][6]。パウリ行列に −i/2 を乗じた
は 𝔰𝔲(2) の基底であり、交換関係
を満たす。𝔰𝔲(2) はトレースが 0 かつ反エルミート
である元 X から構成されるが、X1, X2, X3 はこの性質を満たす。コンパクトで連結な線形リー群である SU(2) の任意の元は、リー環の指数写像によって、
の形で与えることができる。
スピン角運動量
量子力学において、パウリ行列はスピン 1/2 の角運動量演算子の表現に現れる[1][2]。角運動量演算子 J1, J2, J3 は交換関係
を満たす。ただし、ℏ = h/2π はディラック定数である。エディントンのイプシロン εijk を用いれば、この関係式は
と表すことができる。ここで、
を導入すると、これらは上記の角運動量演算子の交換関係を満たしている。J1, J2, J3 の交換関係はゼロではないため、同時に対角化できないが、この表現は J3 を選び対角化している。J31/2 の固有値は +ℏ/2, −ℏ/2 であり、スピン 1/2 の状態を記述する。
ガンマ行列の表現
パウリ行列はガンマ行列の特定の表現を構成するのに用いられる。ガンマ行列 σμ (μ= 0, 1, 2, 3) は反交換関係
を満たすものとして定義される。ただし、I は単位元であり、gμν (μ, ν = 0, 1, 2, 3) は4次元時空のミンコフスキー計量 g = (gμν) = diag(+1, −1, −1, −1) である。このとき、2次単位行列 I2 とパウリ行列により、4次正方行列
を導入すると、これらは上記の反交換関係を満たし、ガンマ行列の表現を与える。これをガンマ行列のディラック表現と呼ぶ。これは次の直積に対する4次正方行列表現である。
順時固有ローレンツ群とSL(2,C)
パウリ行列は順時固有ローレンツ群 L↑+ とその普遍被覆群である2次特殊線形群 SL(2, C) を対応づけるのに用いられる[7][8]。ローレンツ群 L = O(3, 1) は一般線形群 GL(4, R) の元 Λ で4次元時空のミンコフスキー計量 g = (gμν) = diag(+1 ,−1, −1, −1) (μ, ν = 0, 1, 2, 3) に対し、ΛTgΛ = g を満たし、ミンコフスキー内積を保つものから成る。
一方、順時固有ローレンツ群 L↑+ = SO+(3, 1) はローレンツ群の連結な正規部分群であり、00成分と行列式の符号についての条件から
として、定義される[9]。ここで4元ベクトル x = (x0, x1, x2, x3) に対し、パウリ行列 σ0 = I, σ→ = (σ1, σ2, σ3) により、2次正方行列
を導入する。その行列式は
であり、ミンコフスキー内積 ⟨x, x⟩ を与える。ここで SL(2, C) の元 A により、変換
を定義すると、
であり、ミンコフスキー内積を保ち、順時固有ローレンツ変換 Λ(A) を与える。さらに、±A は同じローレンツ変換 Λ(A) = Λ(−A) を与えることから、これは SL(2, C) から L↑+ への2対1の準同型写像を与える。その核は Z2 = {±1} であり、群の同型対応
が成り立つ。
四元数の表現
パウリ行列により、四元数の2次正方行列表現を与えることができる。
を導入すると、関係式
を満たす。これは四元数の基底元 i, j, k が満たす関係式
と対応する。四元数環 H から複素行列環 Mat(2,C) へのR-線形写像
は和と積と保ち、四元数の2次正方行列表現を与える。この像は
であり、H と M は R-多元環として同型である。
脚注
- ^ a b c d 猪木、河合(1994)、第7章
- ^ a b c d J.J Sakurai and Jim Napolitano(2010), chapter 3
- ^ Pauli, W. (1927). “Zur Quantenmechanik des magnetischen Elektrons”. Zeitschrift für Physik 43 (9): 601-623. doi:10.1007/BF01397326. ISSN 0044-3328.
- ^ 内積はヒルベルト=シュミット内積とする。
- ^ a b 平井、山下 (2003)、第4章
- ^ 佐藤 (1992)、第5章
- ^ 佐藤 (1992)、第8章
- ^ 平井、山下 (2003)、第5章
- ^ 相対論での慣習に従い、添え字は 0, 1, 2, 3 をとるものとする。
参考文献
- 猪木慶治、川合光『量子力学I』 講談社 (1994) ISBN 978-4061532090
- 佐藤光『物理数学特論 群と物理(パリティ物理学コース)』丸善 (1992) ISBN 978-4621037874
- 平井武、山下博『表現論入門セミナー ―具体例から最先端にむかって』遊星社 (2003) ISBN 978-4795268982
- J.J Sakurai and Jim Napolitano, Modern Quantum Mechanics (2nd edition), Addison Wesley (2010) ISBN 978-0805382914
関連項目