ケビン・マギー
ケビン・マギー | |
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ケビン・マギー(2007年10月) | |
グランプリでの経歴 | |
国籍 | オーストラリア |
活動期間 | 1987年 - 1993年 |
チーム | ヤマハ、スズキ |
レース数 | 36 |
優勝回数 | 1 |
表彰台回数 | 3 |
通算獲得ポイント | 326.5 |
ポールポジション回数 | 1 |
ファステストラップ回数 | 1 |
初グランプリ | 1987年 500cc 日本GP |
初勝利 | 1988年 500cc スペインGP |
最終勝利 | 同上 |
最終グランプリ | 1993年 500cc 日本GP |
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ケビン・マギー (Kevin Magee, 1962年7月20日 - ) は、オーストラリア出身の元オートバイレーサー。
経歴
キャリア初期
地元オーストラリア、そして日本でのプロダクションバイク(市販量産車)、スーパーバイクでのレースでマギーのキャリアは始まった。
オーストラリア国内のスーパーバイクのレースに、ボブ・ブラウンのチームからドゥカティを駆って参戦、その後はマイケル・ドーソンと一緒にウォーレン・ウィリングが運営するヤマハのディーラーチームからプロダクションレース・スーパーバイクレースに参戦した。当時はプロダクションレースが格上であり、スーパーバイクのシリーズは発展途上にあった。
1985年にモリワキエンジニアリングの森脇護により見いだされ、鈴鹿8時間耐久レースにモリワキ8号車で初参戦。1986年の鈴鹿8時間耐久ではドーソンとペアを組み、オーストラリアから持ち込んだスーパーバイク仕様のFZ750を駆って、ワークスのTT-F1勢に割って入る2位表彰台を獲得し、世界的に注目を浴びることになった。しかしこの年バサーストで開催された耐久レースでは大きなリードを保っていたにもかかわらず、ピットサインを見て後続が迫っていると勘違いし、結果転倒して足を骨折。GPデビューを遅らせることになってしまった。だが年末に開催されたスワンシリーズ[1]ではヤマハのワークスGPマシンに乗る機会を得て、6レース中2勝を収める活躍を見せた。
世界GPデビュー
1987年、マギーはケニー・ロバーツ率いるヤマハ・チームからロードレース世界選手権500ccクラスに、ワイルドカード枠で3戦の出場機会を得た。開幕戦日本GPはクラッシュに終わるが、雨に見舞われた第7戦ダッチTTでは初ポイントを獲得、そして第13戦ポルトガルGPで見事3位表彰台を獲得する活躍を見せた。またこの年の鈴鹿8耐にマーチン・ウィマーと組んで出場。ヨシムラの高吉克郎の転倒により、残り5分での逆転劇でヤマハに8耐初優勝をもたらす。さらにはTTフォーミュラ世界選手権(TT-F1クラス)の菅生ラウンドでも勝利を果たし、マギーは1シーズンに3つの世界選手権レースの表彰台に立った唯一のライダーになった。
1988年、マギーはランディ・マモラの後釜[2]としてチーム・ロバーツ・ヤマハから、ウェイン・レイニーをチームメイトにフル参戦デビューを果たした。またこの年も鈴鹿8耐に参戦し、GPと同じくレイニーと組んで自身2連勝を果たした。
GPでは第3戦、ハラマで開催されたスペインGPで早くも初優勝を果たし、将来が有望視されていた。しかし翌1989年、ラグナ・セカで開催された第2戦アメリカGPで、マギーは不幸なアクシデントの当事者となってしまった。
ラグナ・セカでの事故
レース後のクールダウンラップ、4位に入ったマギーはバーンアウトのパフォーマンスをおこない、タイヤスモークをあげていた。その煙でマギーのマシンが見づらくなっていたところにババ・ショバートが突っ込んでしまった。この事故でマギーは足を骨折(2戦欠場後に復帰)、そして重傷を負ったショバートはレーサーとしてのキャリアを終えることになってしまった。
また皮肉なことに翌1990年のアメリカGPでは、マギーは前年と同じ場所でクラッシュし、頭部に重傷を負って1シーズンを棒に振ることになった。1991年はスズキから2戦、チーム・ロバーツ・ヤマハから1戦のみの出場に終わった。1992年の日本GPには日本テレコム・ヤマハからワイルドカードでの参戦が予定されていたがフリー走行で転倒し欠場、そして1993年の日本GPにワイルドカード参戦したのがマギーにとって最後のGPレースとなった。
他カテゴリでの活躍
マギーはスーパーバイク世界選手権にも何戦か参戦し、1991年と1992年には地元フィリップアイランドで勝利を記録した[3]。1992年には全日本ロードレース選手権GP500クラスでダリル・ビーティーと熾烈なチャンピオン争いを展開したが、惜しくも2ポイント差で敗れた[4]。
1994年にはAMAスーパーバイクに参戦し、その後引退を発表した。結局マギーはショバートとの事故後、かつての輝きを取り戻せないままキャリアを終えることになった。
引退後
マギーはオーストラリア国内でのMotoGPとスーパーバイク世界選手権のテレビ放送で解説者を務めている。またオートバイ雑誌 " Two Wheels " で時折試乗レポートもおこなっている。
主なレース戦績
ロードレース世界選手権
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
年 | クラス | チーム | マシン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | ポイント | 順位 | 優勝 |
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1987 | 500cc | ロバーツ・ヤマハ | YZR500 | JPN NC | SPA - | GER - | ITA - | AUT - | YUG - | NED 10 | FRA - | GBR - | SWE - | CZE - | RSM - | POR 3 | BRA - | ARG - | 11 | 15位 | 0 |
1988 | 500cc | ラッキーストライク・ロバーツ・ヤマハ | YZR500 | JPN 7 | USA NC | SPA 1 | EXP 3 | ITA 5 | GER 5 | AUT 6 | NED 4 | BEL 5 | YUG 5 | FRA 9 | GBR 5 | SWE 6 | CZE NC | BRA 6 | 138 | 5位 | 1 |
1989 | 500cc | ラッキーストライク・ロバーツ・ヤマハ | YZR500 | JPN 5 | AUS 4 | USA 4 | SPA INJ | ITA INJ | GER 7 | AUT 5 | YUG 4 | NED 4 | BEL 7 | FRA 5 | GBR 6 | SWE 5 | CZE 7 | BRA 6 | 138.5 | 5位 | 0 |
1990 | 500cc | ラッキーストライク・スズキ | RGV500 | JPN 4 | USA NC | SPA INJ | ITA INJ | GER INJ | AUT INJ | YUG INJ | NED INJ | BEL INJ | FRA INJ | GBR INJ | SWE INJ | CZE INJ | HUN INJ | AUS INJ | 13 | 21位 | 0 |
1991 | 500cc | ラッキーストライク・スズキ マールボロ・ロバーツ・ヤマハ | RGV500 YZR500 | JPN 13 | AUS 11 | USA - | SPA - | ITA - | GER - | AUT - | EUR - | NED - | FRA - | GBR - | RSM - | CZE - | VDM - | MAL 5 | 19 | 19位 | 0 |
1993 | 500cc | 日本テレコム・ヤマハ | YZR500 | AUS - | MAL - | JPN 9 | SPA - | AUT - | GER - | NED - | EUR - | RSM - | GBR - | CZE - | ITA - | USA - | FIM - | 7 | 25位 | 0 |
鈴鹿8時間耐久ロードレース
開催年 | バイク | チーム | パートナー | 総合順位 |
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1985年 | ホンダ・CBX750F | モリワキエンジニアリング | ロブ・フィリス | 9位 |
1986年 | ヤマハ・FZ750 | マイケル・ドーソン | 2位 | |
1987年 | ヤマハ・YZF750 | 資生堂TECH21 RT. | マーチン・ウィマー | 1位 |
1988年 | ヤマハ・YZF750 | チーム・ラッキーストライク・ロバーツ | ウェイン・レイニー | 1位 |
1989年 | ヤマハ・YZF750 | チーム・ラッキーストライク・ロバーツ | ウェイン・レイニー | リタイヤ |
1991年 | ヤマハ・YZF750 | ネスカフェRTヤマハ | ダグ・チャンドラー | 2位 |
1992年 | ヤマハ・YZF750 | ネスカフェCAN RTヤマハ | ニール・マッケンジー | 2位 |
脚注
外部リンク
- スペシャルコラム「8耐 ヤマハ・レジェンド」不死鳥マギー
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鈴鹿8時間耐久ロードレース歴代勝者 | |
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1970年代 |
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1980年代 |
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