カール6世 (神聖ローマ皇帝)

カール6世
Karl VI
神聖ローマ皇帝
カール6世
在位 1711年10月12日1740年10月20日
戴冠式 1711年11月22日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国 フランクフルト
(神聖ローマ皇帝)
1712年3月22日
ハンガリー王国 ポジョニ
(ハンガリー国王)
1723年9月5日
ボヘミアの旗 ボヘミア王国 プラハ
(ボヘミア国王)
別号 ハンガリー国王
ボヘミア国王
シチリア国王
ナポリ国王
サルデーニャ国王
アラゴン国王
オーストリア大公
クライン公
テシェン公
ミラノ公
パルマ公
ピアチェンツァ公
ブルゴーニュ公
ブラバント公
リンブルフ公
ルクセンブルク公
ナミュール辺境伯
チロル伯
ブルゴーニュ伯
フランドル伯
エノー伯
アルトワ伯

全名 Karl Franz Joseph Wenceslau Balthasar Johann Anton Ignatius
カール・フランツ・ヨーゼフ・ヴェンツェスラウ・バルタザール・ヨーハン・アントン・イグナティウス
出生 1685年10月1日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国 ウィーン ホーフブルク宮殿
死去 (1740-10-20) 1740年10月20日(55歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国 ウィーン アウガルテン宮殿
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国 ウィーン カプツィーナー納骨堂
配偶者 エリーザベト・クリスティーネ
子女 マリア・テレジア
マリア・アンナ
家名 ハプスブルク家
父親 レオポルト1世
母親 エレオノーレ・マグダレーネ
宗教 カトリック
サイン
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カール6世ドイツ語: Karl VI., 1685年10月1日 - 1740年10月20日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)。最後の男系男子で、狭義にはハプスブルク家最後の皇帝。さらにハンガリー国王(在位:同)・ボヘミア国王(在位:同)。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。

若年期は、スペイン・ハプスブルク家断絶後のスペイン王位を主張し、スペイン継承戦争を戦った。しかし、兄ヨーゼフ1世の急逝により神聖ローマ皇帝として即位。プリンツ・オイゲンの活躍により、ハプスブルク君主国史上最大の版図を築いた。しかし、男系の後継者に恵まれず、1713年に国事詔書を布告した。1720年以降は、長女マリア・テレジアに家領を継承させるため、ドイツ諸邦や周辺国に対し、外交的譲歩を繰り返さざるを得なくなった。1740年にカール6世は崩御し、ハプスブルク家の男系が断絶。カールが後半生を傾け、所領と引き換えに取り付けた約束は反故にされ、オーストリア継承戦争が勃発した。

生涯

生い立ち

1685年10月1日、レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男として誕生した。

従兄のスペイン王カルロス2世は、先天的に病弱で、子孫も無く、スペイン・ハプスブルク家は断絶を確実視されていた。一度は英仏の合意により第一次分割条約が結ばれた[1]。内容は、カールの異母姉の子ヨーゼフ・フェルディナントを後継者とし、ナポリシチリアはルイ14世の息子ルイ王太子(グラン・ドーファン)へ、ミラノ公国はレオポルト1世の次男カールへ、分割するものだった[1]

しかし肝心のヨーゼフが6歳で夭折したため、再び王位継承問題が表面化した。

スペイン継承戦争

1707年画、「カルロス3世」としてのカール
詳細は「スペイン継承戦争」を参照

1700年、カルロス2世が崩御した。カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、後継者としてフランス国王 ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(フェリペ5世として即位)を推薦していた。イングランド国王 ウィリアム3世はフランスがスペインを併合することに脅威を感じていたが、フィリップの即位を容認した[2]。ところが、ルイ14世はスペインの勢力圏であるネーデルランド植民地を巡り、各国との対立を深めたため、1701年9月7日に対フランス大同盟(ハーグ条約)が締結されるに至った[2]。カールは対仏・西の旗印として、スペイン継承戦争を戦うこととなった。

カールは1703年に同盟国ポルトガルへ渡る。1704年8月4日ジブラルタルが陥落すると、9月にはカタルーニャに上陸した[3]。このとき、カールは住民から想定外の歓迎を受けた[3]1705年にイングランドの将軍ピーターバラ伯がバルセロナを占領すると(第1次バルセロナ包囲戦)、バルセロナに入ってカルロス3世を称し、マドリードのフェリペ5世と対峙した。

1706年にスペイン軍に包囲されたバルセロナを守り抜き(第2次バルセロナ包囲戦)、ポルトガルから進軍してマドリードを落としたイングランドの将軍ゴールウェイ伯・ピーターバラと合流した。しかし、フェリペ5世にマドリードを奪い返され、翌1707年にピーターバラがイングランドへ召還、ゴールウェイがフランスの将軍ベリック公にアルマンサの戦いで大敗するとスペインのほとんどを制圧され、劣勢になった。

1708年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家のエリーザベト・クリスティーネとバルセロナで婚礼を挙げた。

1710年イギリスの将軍ジェームズ・スタンホープとオーストリアの将軍グイード・フォン・シュターレンベルクが反撃してマドリードを再占領したが、フェリペ5世に再び奪回された上、フランスから援軍を率いたヴァンドーム公が同盟軍を急襲、スタンホープはブリウエガの戦いで捕らえられシュターレンベルクもビリャビシオーサの戦いで敗北、フェリペ5世の優位は決定的になった[4]

オーストリアへの帰還、皇帝即位

1711年、兄である皇帝ヨーゼフ1世が崩御すると情況が大きく変わった。兄には息子がなく、皇帝選出のためドイツへ戻ったカールがカール6世として帝位を継ぐことになったのである。こうなると、もしカール6世がスペイン王位も継承すれば、かつてのカール5世(スペイン国王 カルロス1世)のような欧州の広大な領土に君臨する強大な君主の出現となり、やはり勢力均衡が崩れてしまうことになる。

そこで1713年、イギリスなどはフランスとスペインが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにしてユトレヒト条約を結んだ。こうしてカールはスペイン王位を断念せざるを得なくなり、1714年にオーストリアもフランス・スペインとラシュタット条約を締結した。残されたバルセロナは1714年にフェリペ5世に落とされている(第3次バルセロナ包囲戦)[5][6]

兄ヨーゼフ1世には、男子がいなかった。スペイン継承戦争と絡み、1703年、兄弟の間で相続協定が結ばれている[7]。カールのスペイン王位継承が実現し、オーストリア(ヨーゼフ系)とスペイン(カール系)いずれの系統で男系が断絶した場合、もう一方の男系が相続することだった[7]。さらに、父レオポルド1世は、1705年、カールのスペイン王位継承が実現しない場合を見越し、ヨーゼフ同意の上で、チロル伯領を初めとする西独方面の所領を、カールに一括相続させる協定を結ばせた[7]。この時点で、兄ヨーゼフに男児はなかった。

戦乱と隆盛、経済政策

詳細は「ラーコーツィの独立戦争」、「墺土戦争 (1716年-1718年)」、および「四国同盟戦争」を参照

皇帝即位後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていたハンガリーでのラーコーツィ・フェレンツ2世叛乱を終息させ、南ネーデルラントからミラノ公国などに勢力を拡大する。

また四国同盟戦争サヴォイア公国との間でシチリアサルデーニャの交換が成立し、その際サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世サルデーニャ国王の称号を認めた。

さらに1716年オスマン帝国との間に墺土戦争が起こるとバルカン半島プリンツ・オイゲンを派遣してオスマン皇帝 アフメト3世と戦い勝利、1718年パッサロヴィッツ条約でオスマン帝国からベオグラードを奪う。

こうした東西両方面への領土拡張の結果、ハプスブルク君主国史上最大の版図を築き上げた[8]。さらに、カール6世は重商主義政策をとり、1718年に東西インド貿易[注釈 1]のためにオーステンデ会社(英語版)を、翌1719年にはドナウ川アドリア海での貿易のために帝立オリエント会社(英語版)をそれぞれ設立させた[9]。貿易の独占を通じて、東方の貴族たちの領土経営を支配し、シュレジエンからベーメンにまたがる麻織物工業に対しては問屋制資本下での統制を試みた[10]。しかし、オーストリアの問屋制資本は外国資本に従属しており、ベーメンの麻織物工業は英国に、水銀や銅はオランダの支配下にあった[10]。さらに英国にはシュレジエンを、ジェノヴァにはベーメンの地租をそれぞれ抵当にして、資金を工面していた[10]。経済的に厳しい状況であり、傭兵軍の維持が困難になっていたため、自国の農民を動員せざるを得なくなっていた[10]

スペイン領イタリアの奪回を夢見るスペインとの対立は続き、フェリペ5世はサルデーニャとシチリアを占領する強硬策に出たため、1718年に勃発した四国同盟戦争に巻き込まれた。たび重なる戦争で疲憊している同盟側はスペインを圧倒するものの、決定的な勝利を得ることができず、パルマ公国を譲渡する羽目になった。大北方戦争ではロシア・ツァーリ ピョートル1世のバルト海進出を抑えるためグレートブリテン国王ハノーファー選帝侯 ジョージ1世およびポーランド国王ザクセン選帝侯アウグスト2世と同盟を結んだ。しかし、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して1721年にフランス・スペインと同盟を結び、オーストリアは孤立した。

後継者問題の表面化

詳細は「国事詔書」および「ポーランド継承戦争」を参照
カール6世(年代不明)

ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた[注釈 2]。カール6世による一括相続で継承問題は解決したものの、即位時点で、兄ヨーゼフにも男子がおらず、かつ自身にも一人の子も無く、「男系の後継者」そのものがいない状況であり、ウィーン宮廷は「女の宮廷」とまで言われていた[11]

スペイン継承戦争のユトレヒト条約と、ほぼ時を同じくしてカール6世は、国事詔書を布告した。領土の分割禁止と男系長子相続を決定し、兄ヨーゼフの娘たちの相続順位は、(将来誕生する)カールの子よりも下位だった[12]

皇后との間にはなかなか子ができず、ありとあらゆる治療を試みた。1716年に唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折した。翌1717年に誕生した長女マリア・テレジアを後継者にするしかなくなり、1720年、領邦に国事詔書の承認を迫った[13]。兄ヨーゼフの娘たちの結婚にも慎重で、マリア・アマーリエバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトとの結婚は1722年まで承認しなかった[13][注釈 3]。オイゲン公の武功を背景に、1722年6月にハンガリーも国事詔書を承認したため、家領内の全承認を取り付けることができた[14]

1724年、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めることを示し、周辺諸国・諸邦の承認を求めた[14]

先述の通り、貿易に参入した結果、英国と対立しており、同じく英国と対立しているスペイン(両国はジブラルタルをめぐって対立)と1725年にウィーン条約を締結してそれまでの対立を解消した。これに対してイギリス、フランス、オランダはハノーファー条約で同盟し、戦争がおこるように思われたが、翌年にオイゲン公の尽力でロシア・プロイセンとも同盟を締結して孤立から脱した。

1727年からスペインとイギリスのジブラルタルをめぐる小規模な戦争が行われ、1729年セビリア条約で終結した。スペインはオーストリアの援軍を期待したが、イギリスの外交官の手回しで中立を堅持した。さらに政略結婚を断られたためスペインは同盟を解消した。国事詔書の承認を求めるカール6世は孤立を避けるため、イギリスと新たに1731年にウィーン条約を締結して同盟を結び直した[15][16]

全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は1732年に承認、イギリスはオステンド会社の解散と引き換えに1731年に、マリア・テレジアによる家領相続を承認させた。しかし、兄ヨーゼフ1世の女婿たち、マリア・ヨーゼファの夫ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストとマリア・アマーリエの夫バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトや、フランスは同意しなかった[17]

1733年ポーランド継承戦争が勃発する。前王アウグスト2世唯一の嫡出子であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストは支持を得られず、フランスの干渉によってスタニスワフ・レシチニスキが国王に選出される事態となった。カール6世は、ザクセン選帝侯から相続の承認を得るべく、プロイセン王国及びロシア帝国と同盟し、フランスと対決した[18]。1734年の一連の戦闘はオーストリアの劣勢となり、翌1735年からの長い休戦交渉の末、1738年にウィーン条約が締結された。

この条約で、フリードリヒ・アウグストのポーランド王位と、ザクセン及びフランスからの相続承認を取り付けた[19]。しかし、これと引き換えに、ナポリシチリア等イタリア方面の所領の多くを手放し、スタニスワフのためにロレーヌ公国(仏:アルザス=ロレーヌ、独:エルザス=ロートリンゲン)をフランスへ割譲した[19]。領地を失ったロレーヌ公 フランツ・シュテファンは、代わってトスカーナ公国が与えられた[19]

フランツ・シュテファンは、カール6世の長女マリア・テレジアとの結婚を諸邦に認めさせるために、この不利な条約を受け入れた[20]。フランツ・シュテファンはウィーンに遊学してカール6世に息子同然に気に入られており、マリア・テレジアとも相思相愛だった。二人は1736年2月12日に婚礼を挙げ、1737年2月、1738年10月、1740年1月にそれぞれ女児が誕生したが、男児は未だ誕生せず、王位継承問題の解決には至らなかった。

1737年にオスマン帝国との再度の戦争(オーストリア・ロシア・トルコ戦争)に敗れてベオグラードを奪還され、領土は縮小した。

1740年、狩猟の最中に突如腹痛を訴え、闘病の末、同年10月20日に56歳で崩御した。マリア・テレジアは、この時第4子を懐妊中であった。国事詔書に基づいてマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継いだが、これを巡ってオーストリア継承戦争が勃発することとなる。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、ついに国事詔書を承認しなかった[21]。1741年3月に、カール6世が待ち望んでいた男児が誕生した(後の皇帝ヨーゼフ2世)。

系譜

カール6世

神聖ローマ皇帝
レオポルト1世

祖父

神聖ローマ皇帝
フェルディナント3世

曾祖父

神聖ローマ皇帝
フェルディナント2世[1]

曾祖母

バイエルン公女
マリア・アンナ

祖母
マリア・アナ[2]
曾祖父

スペイン国王
フェリペ3世

曾祖母
マルガリータ[1]

エレオノーレ・マグダレーネ[3]
祖父

プファルツ選帝侯
フィリップ・ヴィルヘルム

曾祖父

プファルツ=ノイブルク公
ヴォルフガング・ヴィルヘルム

曾祖母

バイエルン選帝侯女
マグダレーネ

祖母
エリーザベト・アマーリア
曾祖父

ヘッセン=ダルムシュタット方伯
ゲオルク2世

曾祖母

ザクセン選帝侯女
ゾフィー・エレオノーレ

[1]は兄妹。[2]の兄はスペイン王フェリペ4世、姉はフランス王妃アンヌ・ドートリッシュ
[3]の妹はポルトガル王ペドロ2世妃マリア・ソフィアと、スペイン王カルロス2世妃マリア・アンナがいる。

子女

1729年頃画

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフの娘であった皇后エリーザベト・クリスティーネとの間には4子がいるが、成人したのは2人だけである。

人物

カール6世は、スペイン国王として即位することは叶わなかったが、オーストリア金羊毛騎士団の初代騎士団長となり、オーストリア宮廷における同騎士団勲章の名誉と特権を可視化し、オーストリアに同勲章を定着させた。その結果、同騎士団の第二の創設者として評価されている[22]

皇帝一族の例にもれず狩猟に情熱を注ぎ、春季を過ごすラクセンブルク宮殿や夏季秋季を過ごすファヴォリータ宮殿(英語版)といった郊外の城館では日常的に親しい友人や側近との狩りを楽しんだ[23][24]。カールは近視ゆえに射撃が得意とは言えず[25]、1732年には、当時の主馬頭アダム・ツー・シュヴァルツェンベルク侯爵を誤って撃ち殺す事故を起こしている[26]。1740年10月初め、皇帝はハンガリー国境地帯のノイジードル湖での狩猟に出かけた[27]。「記録的に極めて天候が悪く極めて寒い10月」[28]上旬を野山と狩猟小屋で過ごした後、ファヴォリータ宮殿に帰り着いてすぐ重い病に陥り、10月20日にホーフブルク宮殿で崩御している[29]。ヴォルテールはその『回想録』の中で[30]、皇帝の死因はタマゴテングタケの混入したキノコ料理を食したためだとしている[31]

カールの生前の努力もむなしく、後継者のマリア・テレジアはオーストリア継承戦争で諸外国による攻撃から自らの世襲領を守らねばならなくなるが、彼女は世襲領の大部分は保持したものの、鉱物資源に恵まれたシュレジエン公領はプロイセン国王フリードリヒ2世に、パルマ公領スペイン・ブルボン家に奪われた[32]。カール6世自身は、王太子時代のフリードリヒ2世に対し、確執関係にあった父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世から廃嫡の憂目に遭いそうになっているのを見かねて、自ら調停に乗り出して父子関係を修復させたことがある[33]

カール6世は自身の初陣となったスペイン戦役を共に戦ったミヒャエル・ヨハン・フォン・アルトハンロッコ・ステラ(イタリア語版)と生涯の友情を築いた[34]。カールは伝統的に、寵臣アルトハンのスペイン生まれの妻マリア・アンナ・ピニャテッリと愛人関係にあったと推定されてきた[35][36]。しかしカールの日記にはアルトハン伯爵夫人の名前は一度も出てこず、この推定は実際にはありそうにない[37]

近年、複数の歴史家が、皇帝は、自ら誤殺してしまったアダム・ツー・シュヴァルツェンベルク侯爵や、猟番の息子など、大勢の男性廷臣と性的関係にあったと主張している[38]。カール6世のセクシュアリティに関するこうした研究によれば、皇帝が生涯にわたり愛を捧げていたのは、親友で主馬頭であり、長い間その妻が皇帝の愛人だと目されていたミヒャエル・ヨハン・フォン・アルトハンであって、皇帝は日記の中でアルトハンを「僕の愛する人、僕の歓び…僕の魂の伴侶」[39]と呼び、2人は定期的に皇帝の寝所で共寝していた。1722年のアルトハンの死によって19年にわたる2人の交情は終わりを告げ、カールは打ちのめされた[40]。皇帝はアルトハンの遺児たちの後見人となり、アルトハンの30万グルデンもの巨額の負債を肩代わりし、未亡人に高額の年金を与えて彼女と遺児たちの生活を保障した[41]

母語のドイツ語に加えてラテン語、イタリア語、フランス語、スペイン語を流暢に話すことができた[42]。また、貨幣と書籍の収集で知られ、皇帝の収集した書籍を収めた宮廷図書館の責任者には科学者のニコロ・ピオ・デ・ガレッリ(ドイツ語版)が任命された[43]。また音楽を愛好し、ヨハン・ヨーゼフ・フックスを楽長とする大規模な宮廷楽団を組織させ、自らも作曲をこなした[44]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 東インド会社及び西インド会社を参照
  2. ^ 例えば、14~15世紀にはアルブレヒト系とレオポルト系に分裂した。
  3. ^ カール・アルブレヒトは、カール6世の崩御後に勃発したオーストリア継承戦争プロイセン王国側に付いただけでなく、自らが皇帝に就いた。

出典

  1. ^ a b 金澤 1966 p.97
  2. ^ a b 金澤 1966 p.100
  3. ^ a b 金澤 1966 p.109
  4. ^ 友清, pp. 74-76, 156-159, 177-179, 197-199, 292-294.
  5. ^ 友清, pp. 303-304, 314-315, 362-366.
  6. ^ マッケイ, pp. 171-176, 185-192.
  7. ^ a b c 進藤 1966 p.182
  8. ^ 進藤 1966 p.187
  9. ^ 進藤 1966 p.191
  10. ^ a b c d 進藤 1966 p.192
  11. ^ 進藤 1966 p.183
  12. ^ 進藤 1966 p.184
  13. ^ a b 進藤 1966 p.185
  14. ^ a b 進藤 1966 p.193
  15. ^ 成瀬ら編, pp. 21-24.
  16. ^ マッケイ, pp. 207-236, 276-297.
  17. ^ 進藤 1966 p.194
  18. ^ 進藤 1966 p.194-195
  19. ^ a b c 進藤 1966 p.195
  20. ^ 久保田 2001 p.232
  21. ^ 進藤 1966 p.212
  22. ^ 早津光子「金羊毛騎士団の人選からみたマリア・テレジア期の宮廷-ハウクヴィッツ伯爵の採用をめぐって-」『教養デザイン研究論集』第6巻、明治大学大学院、2014年2月28日、35-55頁、ISSN 2185-6966。  p.41
  23. ^ マッケイ, pp. 196-197.
  24. ^ ウィートクロフツ, pp. 269-270.
  25. ^ 新井皓士「カール6世」川成洋・菊池良生・佐竹謙一(編)『ハプスブルク事典』PP432-433、丸善出版、2023年1月31日
  26. ^ ダインダム, pp. 267.
  27. ^ ウィートクロフツ, pp. 278.
  28. ^ Edward Crankshaw: Maria Theresa, A&C Black, 2011. またこうした記述もある:「ある日の狩りの後、皇帝は風邪をひき発熱した。狩猟小屋に戻ると、キノコ料理を用意するようコックに命じた。しかし料理を食べてすぐに具合が悪くなり、侍医たちは瀉血を施したものの効き目はなかった」 (Julia P. Gelardi: In Triumph's Wake: Royal Mothers, Tragic Daughters, and the Price They Paid for Glory, Macmillan, 2009).
  29. ^ 1740年10月上旬、カールは雨の多い寒い日に、「侍医たちの警告を聞かず」(Eliakim Littell, Robert S. Littell: Littell's Living Age, Volume 183, T.H. Carter & Company, 1889, pg. 69)、ノイジードル湖畔でのガチョウ狩りを楽しみ、ハンガリー国境近くまで出向いて、凍えてびしょびしょに濡れた姿でファヴォリータ宮殿に帰ってきた。発熱と腹痛の症状が出ていたにもかかわらず、皇帝は好物のカタルーニャ風キノコ煮込み(the Littell brothers の記述では「大皿に載ったキノコのフライ」)を食べたいと言い張り、コックに用意させた。10月10日夜から11日朝にかけて嘔吐の症状があり、11日から高熱が出て重体となった。輿に乗せられて慎重にウィーン市街のホーフブルク宮殿に搬送され、9日後に死んだ。
  30. ^ «Charles the Sixth died, in the month of October 1740, of an indigestion, occasioned by eating champignons, which brought on an apoplexy, and this plate of champignons changed the destiny of Europe» (Voltaire: Memoirs of the Life of Voltaire, 1784; pp. 48–49).
  31. ^ Wasson RG. (1972). The death of Claudius, or mushrooms for murderers. Botanical Museum Leaflets, Harvard University 23(3):101–128.
  32. ^ Browning, Reed: The War of the Austrian Succession, Palgrave Macmillan, 1995, ISBN 0-312-12561-5, 362.
  33. ^ 菊池, pp. 191-192.
  34. ^ ダインダム, pp. 267.
  35. ^ ダインダム, pp. 268.
  36. ^ ウィートクロフツ, pp. 268.
  37. ^ マッケイ, pp. 199.
  38. ^ Charlotte Backerra, 'Disregarding Norms: Emperor Charles VI and His Intimate Relationships', Royal Studies Journal, Vol 6 No2, Winchester University Press, 2019, p75; Friedrich Polleroß, 'Monumenta Virtutis Austriacae: Addenda zur Kunstpolitik Kaiser Karls VI.,' in Kunst, Politik, Religion: Studien zur Kunst in Süddeutschland, Österreich, Tschechien und der Slowakei, ed. Markus Hörsch and Elisabeth Oy-Marra, Petersberg: Michael Imhof Verlag, 2000, p118.
  39. ^ 16 March 1722, OeStA, HHStA, HA, Sammelbände 2, Tagebuch 12 (1722-1724), fol. 6r., quoted in Stefan Seitschek, Die Tagebücher Kaiser Karls VI., Berger & Söhne, Ferdinand 2018, p233.
  40. ^ Clarlotte Backerra, 'Intime Beziehungen Kaiser Karls VI. in Historiogrpahie und überlieferten Quellen', in Norman Domeier, Christian Mühling (eds.), Homosexualität am Hof: Praktiken und Diskurse vom Mittelalter bis heute, Campus Verlag GmbH, 2020, pp53-78; Helmut Neuhold, Das andere Habsburg: Homoerotik im österreichischen Kaiserhaus, Broschur 2008, passim.
  41. ^ ダインダム, pp. 127.
  42. ^ マッケイ, pp. 197.
  43. ^ マッケイ, pp. 197.
  44. ^ マッケイ, pp. 197.

参考文献

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  • 進藤牧郎「オーストリア継承戦争」『世界の戦史』第6巻、人物往来社、1966年11月18日、177-252頁、ASIN B000JBHB7A。 
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  • 南塚信吾 編『ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社〈新版 世界各国史 19〉、1999年3月。ISBN 978-4-634-41490-7。 
  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年2月。ISBN 978-4-7791-1239-3。 
  • マッケイ, デレック『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア 興隆期ハプスブルク帝国を支えた男』瀬原義生訳、文理閣、2010年5月。ISBN 978-4-89259-619-3。 
  • ウィートクロフツ, アンドリュー『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』瀬原義生訳、文理閣、2009年7月15日。ISBN 978-4892595912。 
  • ダインダム, イェルン『ウィーンとヴェルサイユ ヨーロッパにおけるライバル宮廷1550~1780』大津留厚・小山啓子・石井大輔 訳、刀水書房、2017年3月13日。ISBN 978-4887084247。 

外部リンク

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爵位・家督
先代
ヨーゼフ1世
神聖ローマ皇帝
1711年 - 1740年
次代
カール7世
爵位・家督
先代
ヨージェフ1世
ハンガリー国王
1711年 - 1740年
次代
マーリア・テレージア
爵位・家督
先代
ヨゼフ1世
ボヘミア国王
1711年 - 1740年
次代
マリエ・テレジエ
爵位・家督
先代
フィリッポ4世
ナポリ国王
1713年 - 1735年
次代
カルロ7世
爵位・家督
先代
ヴィットーリオ・アメデーオ
シチリア国王
1720年 - 1735年
次代
カルロ5世
爵位・家督
先代
フィリッポ4世
サルデーニャ国王
1713年 - 1720年
次代
ヴィットーリオ・アメデーオ2世
爵位・家督
先代
フェリペ4世
(スペイン王位から分離)
アラゴン国王
1705年 - 1714年
次代
スペイン王位へ統合
爵位・家督
先代
ヨーゼフ1世
オーストリア大公
1711年 - 1740年
次代
マリア・テレジア
爵位・家督
先代
ヨーゼフ1世
クライン公
1711年 - 1740年
次代
マリア・テレジア
爵位・家督
先代
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1711年 - 1740年
次代
マリア・テレジア
爵位・家督
先代
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ミラノ公
1714年 - 1740年
次代
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爵位・家督
先代
カルロ1世
パルマ公
ピアチェンツア公

1735年 - 1740年
次代
マリア・テレーザ
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1713年 - 1740年
次代
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次代
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1706年 - 1740年
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爵位・家督
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ルクセンブルク公
1713年 - 1740年
次代
マリア2世
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先代
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ブルゴーニュ伯
1713年 - 1740年
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マリー・テレーズ
爵位・家督
先代
マクシミリアン2世
(主張)
ナミュール辺境伯
1714年 - 1740年
次代
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爵位・家督
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フィリップ7世
フランドル伯
1714年 - 1740年
次代
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先代
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1714年 - 1740年
次代
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爵位・家督
先代
フィリップ9世
アルトワ伯
1711年 - 1740年
次代
マリー・テレーズ
カロリング朝
  • カール1世800-814
  • ルートヴィヒ1世813-840
  • ロタール1世817-855
  • ルートヴィヒ2世850-875
  • カール2世875-877
  • カール3世881-887
  • グイード1891-894
  • ランベルト1891-898
  • アルヌルフ896-899
  • ルートヴィヒ3世2901-915
  • ベレンガル3915-924
ザクセン朝
  • オットー1世962-973
  • オットー2世967-983
  • オットー3世996-1002
  • ハインリヒ2世1014-1024
ザーリアー朝
  • コンラート2世1027-1039
  • ハインリヒ3世1046-1056
  • ハインリヒ4世1084-1105
  • ハインリヒ5世1111-1125
  • ロタール3世41133-1137
ホーエンシュタウフェン朝
  • フリードリヒ1世1155-1190
  • ハインリヒ6世1191-1197
  • オットー4世51209-1215
  • フリードリヒ2世1220-1250
ルクセンブルク家
  • ハインリヒ7世1312-1313
  • ルートヴィヒ4世61328-1347
  • カール4世1355-1378
  • ジギスムント1433-1437
ハプスブルク家
  • フリードリヒ3世1452-1493
  • マクシミリアン1世1508-1519
  • カール5世1530-1556
  • フェルディナント1世1558-1564
  • マクシミリアン2世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス1612-1619
  • フェルディナント2世1619-1637
  • フェルディナント3世1637-1657
  • レオポルト1世1658-1705
  • ヨーゼフ1世1705-1711
  • カール6世1711-1740
  • カール7世61742-1745
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世71745-1765
  • ヨーゼフ2世1765-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランツ2世1792-1806
アールパード朝(大公)
  • アールモシュ(英語版)855頃-895頃
  • アールパード895頃-907頃
  • ジョルト(英語版)907頃-947頃
  • ファリチ(英語版)947頃-955頃
  • タクショニュ(英語版)955頃-972頃
  • ゲーザ(英語版)972頃-997
  • イシュトヴァーン997-1000
アールパード朝(王)
  • イシュトヴァーン1世1000-1038
  • ペーテル1038-1041
  • シャームエル1041-1044
  • ペーテル(復位)1044-1046
  • アンドラーシュ1世1046-1060
  • ベーラ1世1060-1063
  • シャラモン1063-1074
  • ゲーザ1世1074-1077
  • ラースロー1世1077-1095
  • カールマーン1095-1116
  • イシュトヴァーン2世1116-1131
  • ベーラ2世1131-1141
  • ゲーザ2世1141-1162
  • イシュトヴァーン3世1162-1172
  • ラースロー2世(対立王)1162-1163
  • イシュトヴァーン4世(対立王)1163-1165
  • ベーラ3世1172-1196
  • イムレ1196-1204
  • ラースロー3世1204-1205
  • アンドラーシュ2世1205-1235
  • ベーラ4世1235-1270
  • イシュトヴァーン5世1270-1272
  • ラースロー4世1272-1290
  • アンドラーシュ3世1290-1301
プシェミスル朝
  • ヴェンツェル1301-1305
ヴィッテルスバッハ朝
  • オットー1305-1307
アンジュー朝
  • カーロイ1世1308-1342
  • ラヨシュ1世1342-1382
  • マーリア1382-1385
  • カーロイ2世1385-1386
  • マーリア(復位)1386-1395
ルクセンブルク朝
  • ジグモンド1387-1437
ハプスブルク朝
  • アルベルト1437-1439
ヤゲロー朝
  • ウラースロー1世1440-1444
ハプスブルク朝
フニャディ朝
  • マーチャーシュ1世1458-1490
ヤゲロー朝
  • ウラースロー2世1490-1516
  • ラヨシュ2世1516-1526
ハプスブルク朝
ハプスブルク=ロタリンギア朝
  • ヨージェフ2世1780-1790
  • リポート2世1790-1792
  • フェレンツ1世1792-1835
  • フェルディナーンド5世1835-1848
  • フェレンツ・ヨージェフ1世1848-1916
  • カーロイ4世1916-1918
  • 1918年、ハンガリー人民共和国成立
ボヘミアの旗 ボヘミア君主 ボヘミア王国の紋章
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ボジヴォイ1世850/71-894/5
  • スピチフニェフ1世894/5-905/15
  • ヴラチスラフ1世905/15-921
  • ヴァーツラフ1世921-929
  • ボレスラフ1世929-967
  • ボレスラフ2世967-999
  • ボレスラフ3世996-1002
ピャスト朝(ボヘミア公)
  • ヴラジヴォイ1002-1003
  • ボレスラフ4世1003-1004
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ヤロミール1004-1012
  • オルドジフ1012-1033
  • ヤロミール(復位)1033-1034
  • ブジェチスラフ1世1034-1055
  • スピチフニェフ2世1055-1061
  • ヴラチスラフ2世1061-1092(王:1085-1092)
  • コンラート1世1092
  • ブジェチスラフ2世1092-1100
  • ボジヴォイ2世1100-1107
  • スヴァトプルク1107-1109
  • ヴラジスラフ1世1109-1117
  • ボジヴォイ2世(復位)1117-1120
  • ヴラジスラフ1世(復位)1120-1125
  • ソビェスラフ1世1125-1140
  • ヴラジスラフ2世1140-1173(王:1158-1173)
  • ベドジフ1172-1173
  • ソビェスラフ2世1173-1178/9
  • ベドジフ(復位)1178/9-1189/92
  • コンラート2世1189-1191
  • ヴァーツラフ2世1191-1192
  • オタカル1世1192-1193
  • インジフ・ブジェチスラフ1193-1197
  • ヴラジスラフ3世1197
  • オタカル1世(復位)1197-1198
プシェミスル朝(ボヘミア王)
  • オタカル1世1198-1230
  • ヴァーツラフ1世1230-1253
  • オタカル2世1253-1278
  • ヴァーツラフ2世1278-1305
  • ヴァーツラフ3世1305-1306
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー1306
ハプスブルコヴェ朝
  • ルドルフ1世1306-1307
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー(復位)1307-1310
ルケンブルコヴェ朝
ハプスブルコヴェ朝
ポジェブラト朝
  • イジー1458-1471
フニャディ朝
  • マティアス1世(対立王)1469-1490
ヤゲロンキ朝
  • ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー1471-1516
  • ルドヴィーク1516-1526
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント1世1526-1564
  • マクシミリアン1世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス2世1612-1619
ヴィッテルスバホヴェ(ファルツ)朝
  • フリードリヒ1世1619-1620
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント2世1620-1637
  • フェルジナント3世1637-1646
  • フェルジナント4世1646-1654
  • レオポルト1世1655-1705
  • ヨゼフ1世1705-1711
  • カレル2世1711-1740
  • マリエ・テレジエ1740-1741
ヴィッテルスバホヴェ(バヴォルスコ)朝
  • カレル3世・アルブレフト1741-1743
ハプスブルコヴェ朝
ハプスブルスコ=ロートリンスカ朝
  • ヨゼフ2世1780-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランティシェク1世1792-1835
  • フェルジナント5世1835-1848
  • フランティシェク・ヨゼフ1世1848-1916
  • カレル3世1916-1918
アンジュー朝

カルロ1世1282-1285 / カルロ2世1285-1309 / ロベルト1世1309-1343 / ジョヴァンナ1世1343-1382 / カルロ3世1382-1386 / ラディズラーオ1世1386-1389

ヴァロワ=アンジュー朝

ルイージ2世1389-1399

アンジュー朝

ラディズラーオ1世(復位)1399-1414 / ジョヴァンナ2世1414-1435

ヴァロワ=アンジュー朝

レナート1世1435-1442

トラスタマラ朝

アルフォンソ1世1442-1458 / フェルディナンド1世1458-1494 / アルフォンソ2世1494-1495

ヴァロワ朝

シャルル8世 (フランス王)1495

トラスタマラ朝

フェルディナンド2世1495-1496 / フェデリーコ1世1496-1501

ヴァロワ朝

ルイ-ジ3世1501-1504

トラスタマラ朝

フェルディナンド3世1504-1516

スペイン・ハプスブルク朝

カルロ4世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ5世1665-1700

ブルボン朝

フィリッポ4世1700-1707

オーストリア・ハプスブルク朝

カルロ6世1707-1735

ブルボン朝

カルロ7世1735-1759 / フェルディナンド4世1759-1806

ボナパルト朝
ブルボン朝

フェルディナンド4世(復位)1815-1816

※1816年、両シチリア王国成立
カテゴリ カテゴリ
オートヴィル朝
ホーエンシュタウフェン朝
アンジュー朝
  • カルロ1世1266-1282
アラゴン朝
  • ピエトロ1世1282-1285
  • ジャコモ1世1285-1296
  • フェデリーコ2世1296-1337
  • ピエトロ2世1337-1342
  • ルドヴィーコ1342-1355
  • フェデリーコ3世1355-1377
  • マリア1377-1401
  • マルティーノ1世1390-1409
  • マルティーノ2世1409-1410
トラスタマラ朝
  • フェルディナンド1世1412-1416
  • アルフォンソ1世1416-1458
  • ジョヴァンニ1世1458-1479
  • フェルディナンド2世1479-1516
スペイン・ハプスブルク朝
  • カルロ2世1516-1556
  • フィリッポ1世1556-1598
  • フィリッポ2世1598-1621
  • フィリッポ3世1621-1665
  • カルロ3世1665-1700
ブルボン朝
  • フィリッポ4世1700-1714
サヴォイア朝
オーストリア・ハプスブルク朝
  • カルロ4世1720-1734
ブルボン朝
アルボレア家
  • バリソーネ1世1164-1172
ホーヘンスタウフェン家
  • エンツォ1世1238-1272
アラゴン家
  • ジャコモ1世1323-1327
  • アルフォンソ1世1327-1336
  • ピエトロ1世1336-1387
  • ジョヴァンニ1世1387-1396
  • マルティーノ1世1396-1410
トラスタマラ家(アラゴン系)
  • フェルディナンド1世1412-1416
  • アルフォンソ2世1416-1458
  • ジョヴァンニ2世1458-1479
  • フェルディナンド2世1479-1516
  • ジョヴァンナ1世1504-1555
スペイン・ハプスブルク家
  • カルロ1世1516-1554
  • フィリッポ1世1554-1598
  • フィリッポ2世1598-1621
  • フィリッポ3世1621-1665
  • カルロ2世1665-1700
スペイン・ブルボン家
  • フィリッポ4世1700-1713
オーストリア・ハプスブルク家
  • カルロ3世1713-1720
サヴォイア(=ブレッセ)家
サヴォイア(=カリニャーノ)家
カテゴリ カテゴリ
ヒメノ朝

ラミロ1世1035-1063 / サンチョ・ラミレス1063-1094 / ペドロ1世1094-1104 / アルフォンソ1世1104-1134 / ラミロ2世1134-1137 / ペトロニラ1137-1164

バルセロナ朝

アルフォンソ2世1164-1196 / ペドロ2世1196-1213 / ハイメ1世1213-1276 / ペドロ3世1276-1285 / アルフォンソ3世1285-1291 / ハイメ2世1291-1327 / アルフォンソ4世1327-1336 / ペドロ4世1336-1387 / フアン1世1387-1396 / マルティン1世1396-1410

トラスタマラ朝

フェルナンド1世1412-1416 / アルフォンソ5世1416-1458 / フアン2世1458-1479 / エンリケ4世(対立王)1462-1463 / ペドロ5世(対立王)1463-1466 / レナト1世(対立王)1466-1472 / フェルナンド2世1479-1516 / フアナ1516-1555

アブスブルゴ朝

カルロス1世1516-1556 / フェリペ1世1556-1598 / フェリペ2世1598-1621 / フェリペ3世1621-1665 / カルロス2世1665-1700

ボルボン朝

フェリペ4世1700-1705

アブスブルゴ朝

カルロス3世1705-1714

※1715年、スペイン王位へ統合
カテゴリ カテゴリ
歴代ドイツ君主・盟主
カロリング朝
  • (ピピン751-768
  • カール1世皇帝(768)-814
  • ルートヴィヒ1世皇帝814-840
  • ロタール1世皇帝840-843
  • ルートヴィヒ2世843-876
  • カールマン2世876-880
  • ルートヴィヒ3世876-882
  • カール3世皇帝876-887
  • アルヌルフ皇帝887-899
  • ルートヴィヒ4世899-911
  • 断絶
  • コンラート1世1911-918
共同王
  • (カールマン1世768-771
ザクセン朝
  • ハインリヒ1世919-936
  • オットー1世皇帝936-973
  • オットー2世皇帝973-983
  • オットー3世皇帝983-1002
  • ハインリヒ2世皇帝1002-1024
共同王
  • オットー2世皇帝961-973
対立王
  • バイエルン公アルヌルフ919-921
  • バイエルン公ハインリヒ2世984-985
ザーリアー朝
  • コンラート2世皇帝1024-1039
  • ハインリヒ3世皇帝1039-1056
  • ハインリヒ4世皇帝1056-1105
  • ハインリヒ5世皇帝1105-1125
  • 断絶
  • ロタール3世2,皇帝1125-1137
共同王
  • ハインリヒ3世1028-1039
  • ハインリヒ4世1053-1156
  • イタリア王コンラート1087-1098
  • ハインリヒ5世1198-1105
対立王
ホーエンシュタウフェン朝
  • コンラート3世1138-1152
  • フリードリヒ1世皇帝1152-1190
  • ハインリヒ6世皇帝1190-1197
  • フリードリヒ2世1197-1198
  • フィリップ1198-1208
  • 中断
  • オットー4世3,皇帝1208-1215
  • 再開
  • フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220
  • ハインリヒ(7世)1220-1235
  • コンラート4世1237-1254
共同王
  • ハインリヒ6世1169-1190
  • フリードリヒ2世1194-1197
対立王
  • ヴェルフ家オットー1198-1208
  • シチリア王フリードリヒ1212-1215
  • ハインリヒ・ラスペ1246-1247
  • ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254
大空位時代
  • ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256
  • コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272
対立王
  • カスティーリャ王アルフォンソ10世1257-1275
非世襲期
  • ルドルフ1世41273-1291
  • アドルフ51292-1298
  • アルブレヒト1世41298-1308
  • ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313
  • ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347
  • カール4世6,皇帝1347-1378
  • ヴェンツェル61378-1400
  • ループレヒト71400-1410
  • ジギスムント6,皇帝1410-1437
  • アルブレヒト2世41438-1439
共同王
  • フリードリヒ3世41325-1230
  • ヴェンツェル61376-1478
対立王
ハプスブルク家
  • フリードリヒ4世皇帝1440-1493
  • マクシミリアン1世皇帝1493-1519
  • カール5世皇帝1519-1556
  • フェルディナント1世皇帝1556-1564
  • マクシミリアン2世皇帝1564-1576
  • ルドルフ2世皇帝1576-1612
  • マティアス皇帝1612-1619
  • フェルディナント2世皇帝1619-1637
  • フェルディナント3世皇帝1637-1657
  • レオポルト1世皇帝1658-1705
  • ヨーゼフ1世皇帝1705-1711
  • カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745
共同王
  • マクシミリアン1世1486-1593
  • フェルディナント1世1531-1556
  • マクシミリアン2世1562-1564
  • ルドルフ2世1575-1676
  • フェルディナント3世1636-1637
  • フェルディナント4世1653-1654
  • ヨーゼフ1世1690-1705
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世皇帝1745-1765
  • ヨーゼフ2世皇帝1765-1790
  • レオポルト2世皇帝1790-1792
  • フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806
ライン同盟
連邦主席
  • オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835
  • オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848
  • ヨハン大公(帝国執政)1848-1849
  • オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871
ドイツ皇帝
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世1871-1888
  • プロイセン王フリードリヒ3世1888
  • プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918
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