イェジ・ドミニク・ルボミルスキ
イェジ・ドミニク・ルボミルスキ Jerzy Dominik Lubomirski | |
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イェジ・ドミニク・ルボミルスキの棺の肖像画(英語版) | |
出生 | 1654年頃 ポーランド・リトアニア共和国、クラクフ |
死去 | 1727年7月27日 ポーランド・リトアニア共和国、ヤノヴィエツ(英語版) |
配偶者 | カタリーナ・フォン・アルテンボックム |
マグダレーナ・タルウォ | |
子女 | フランチシェク・フェルディナント アントニ・ベネディクト |
家名 | ルボミルスキ家 |
父親 | イェジ・セバスティアン・ルボミルスキ |
母親 | バルバラ・タルウォ |
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イェジ・ドミニク・ルボミルスキ(Jerzy Dominik Lubomirski, 1654年頃 - 1727年7月27日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族、公爵(帝国諸侯)。
生涯
ヘトマンのイェジ・セバスティアン・ルボミルスキと後妻バルバラ・タルウォの息子。ポロンネ、ヤノヴィエツ及びリュボームリの領主。1695年より王冠領配膳官(Podstoli koronny)、1702年より宮廷侍従(Podkomorzy)、1726年よりクラクフ県知事を務めた。オルシュティン、カジミェジュ・ドルヌィ(英語版)及びリプノ(英語版)の代官職を帯びた。
1695年異母兄ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキの妻の妹にあたるカタリーナ・フォン・アルテンボックムと結婚するが、彼女は1700年よりアウグスト強王の妾となったため、間に子は無く、1710年教皇の命令で婚姻は解消された。
1712年マグダレーナ・タルウォ(1690年 - 1730年)と再婚し、間に2人の息子をもうけた。
- フランチシェク・フェルディナント・ルボミルスキ(英語版)(1712年頃 - 1774年)
- アントニ・ベネディクト・ルボミルスキ(英語版)(1718年頃 - 1761年)
参考文献
- Jerzy Dominik ks. Lubomirski z Lubomierza h. Drużyna (ID: 15.105.349),M.J. Minakowski, Genealogia potomków Sejmu Wielkiego.2020年4月29日閲覧。